YOKOHAMAN'S A GO GO

[NEVER SOLD OUT]なブログ

XJAPAN THE LAST LIVE 1997〜最後の夜〜 1997.12.31@東京ドーム Part.1

 
 
 
 

ブログ再開にあたってこういう音楽コラムというかそういうのを書いてみようかなーとずっと思ってて、でもいきなりこの話をするのはとんでもなく重たいし、当時新聞の社会面でも扱われたようなネタだし書くのはなかなか大変だろうとも思ったけど、自分用のまとめ兼ねてひとつひとつ整理して書いていこうと思う。

 
 
 
最初に言っておくと97年ゆえ、このライブには参加していないし当時の状況も実体験出来ていないので薄いかもしれないけど、参加してない人間なりに書けるものを書いていこうかと思う。
 
ある意味邦楽界の一大事件であり''今現在、表に出てる当時の裏側''はとんでもなくカオスで大変だったお話。
 
解散ってのはだいたい本人達がその方がいいと同意した上で成り立つものなんだろうけど、今からするお話は決してそうではない、本来あってはならない解散のお話。ノンフィクション。
 
 
​解散までの経緯も書いていくので長くなると思われる。
 
経緯に関してはどうしても避けては通れない部分なので、
ラストライブのレポというよりは1997年、XJAPANという一世を風靡したバンドがどう終幕へ向かっていったのかを並べていく記録
として読んでいただければ幸いです。
 
 
 
 
※当然ではあるが、本人達の発言やインタビュー、書籍などをソースに表に出ている事実のみ並べていくけど結局のとこ真相なんて本人達にしか分からないという前提を忘れずに読んでいただければ。
 
 
 
 
 
 
 
 
XJAPAN:幼馴染だったYOSHIKIとTOSHIを中心に館山でXを結成。メンバーチェンジを繰り返し1987年にメンバーが固まる。1989年にCBSソニーからメジャーデビュー。1991年には初の東京ドーム公演。1992年にはロックバンド史上初の東京ドーム3days公演。 同じ年にバンド名をXからXJAPANへ変更し、アトランティックとレーベル契約し世界進出を目指すが1997年に解散。2007年に再結成し、今に至る。
派手なメイクに派手なパフォーマンス、破壊的な激しいメタルと綺麗なクラシックサウンドを併せ持つバンド。楽曲はもちろん、どの時代を切り取ってもバンドに何かしらの重大な出来事があり背負う歴史は重たい。
ギターのHIDEがバンドのキャッチフレーズとしてつけた
PSYCHEDELIC VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK
というフレーズからビジュアル系という言葉が生まれたとされている。
 
 
 
 
 
 
XJAPANのメンバー紹介を少々
 
 
YOSHIKI(Dr.pf):本名:林佳樹 
 
言わずと知れたXJAPANリーダー。作詞、作曲、プロデュース、ビジネスどれを取っても超一流でXJAPAN創設者の一人。TOSHIとは幼稚園からの幼馴染。21歳にしてエクスタシーレコードというインディーズレーベルを立ち上げ、Xは勿論、LUNA SEAGLAYその他多くのバンドをデビューさせたりしている多くのバンドの兄貴分。たくさんの世界的なミュージシャンと親交やコラボ歴がある。
常にXJAPANの中心でありトラブルの中心でもある笑 だが世界中のいろんな人、物を巻き込んで旋風を起こしているのは間違いない。
 
TOSHI(Vo):本名:出山利三 
 
言わずと知れたハイトーンボーカリストYOSHIKIとは幼馴染で幼稚園の頃からの仲。高校卒業してYOSHIKIと一緒に上京。
メンバーチェンジの激しいXだったが、この2人は不動でXを作り続けてきた。一般男性には出ないようなレベルのクリーンな高音とMC、トークの上手さは唯一無二。ラジオトークも一級品でANNパーソナリティもやっていた。
実は超マルチプレイヤーでいろんな楽器が出来るが、XJAPANのライブではたまーに弾き語りするくらいで基本的にはボーカル専念。
バンド解散の原因を作ってしまい、10年間別の世界に行ってしまうが戻ってきた。今はバラエティでスイーツ王子になっていたりする。
 
HIDE(Gt):本名:松本秀人
 
 ピンクヘアーの超絶カリスマギタリスト。バンド最年長でバンドの母役。一歩引いた視点からXを見れる存在でとにかくファンを大事にすることで有名だった。数え上げたらエピソードは尽きないが骨髄バンクを世に広めた1人でもある。
作詞作曲、アレンジセンス、フレーズセンス、ファッションセンス抜群。その先見性からよく未来人と言われている。
ソロでも並行して売れまくっていて94年、96年と2回のアリーナホールツアーはすべて完売。解散後1発目シングルは売上70万枚。そしてこれからという時期に急逝(1998.5.2) 。葬儀にはファン5万人、ミュージシャン300人訪れ日本記録を作った。
今でもなお多くのファン、ミュージシャンに慕われ、愛されていて今でもXJAPANの正式メンバーという扱い。
 
HEATH(Ba):本名:森江博 
 
92年前任ベーシストのTAIJIが脱退したところをHIDEに誘われ加入。抜群のスタイルと50代になってもなおビジュアルを保ち続ける無口なスーパーイケメンベーシスト。ベースプレイはかなり堅実で安定感があり途中加入、しかもビックバンドになってからの加入ではあるがXの下地をガッチリと支えている。
ソロコーナーでは振り回したりぶっ叩いたり、ペンライト弾きしたりする。
前はソロ活動もやっていてコナンのEDだった迷宮のラヴァーズという曲は聞き覚えある人もいると思われる。
加入してお披露目がNYでの世界進出会見、初レコーディングがART OF LIFE(30分の超大作シングル)、初TVが紅白、初ライブがドームという異例の経歴を持つ。
 
PATA(Gt):本名:石塚智昭 
 
下手の仙人のようなギタリスト。TOSHI.YOSHIKIとの親交は長くX加入前、高校時代からの知り合い。HIDEの唯一無二の相棒でソロパートのハーモニクスは世界一(個人的感想)。
HIDEのソロツアーに2本とも参加してギターを弾いていた。あまり派手なプレイをするタイプではないが早弾きを得意としていて曲によってはソロを弾く時もある。
YOSHIKIのツッコミ役に回ることが多いがHEATH同様マイペースにバンドを支えている。
トラブルが常につきまとうXJAPANの中ではほとんどトラブルは起こさないほうだったが2016年に病気をしてしまいウェンブリーアリーナワンマンが延期になった。ステージドリンクはビール。
 
 
※ここでは92〜97年をメインに書くことになるのでTAIJI(元Ba)とSUGIZO(現Gt)に関しては割愛させて頂きます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1996.12.30と12.31、東京ドームにてDAHLIA TOUR FINALというお馴染みになっていた年末ライブを終えたXJAPANは一時の休止状態のような感じになっていた。
 
YOSHIKIはXJAPANのレコーディングやライブアルバム、ビデオのエディット、それを待つ間に他のメンバーはソロ活動のレコーディングやツアーをしていたところだった。XJAPANではごくごく当たり前な光景だった。
 
 
​1:ボーカルTOSHI脱退
 
1997.4.20 LAのスタジオにてTOSHIはYOSHIKIにXを脱退したいと告げる。
 
YOSHIKIの発言では告げられた時、「間を置かずあっさり分かったよ。」と答えたとあるが、TOSHIの自著では「しばらくの沈黙の後、分かったよ…」と言われたと書いてあったりする。
 
まぁ言う側、言われた側の体感時間の違いか。原因は「XJAPANのボーカリストとしてやっていく自信を失った。」だったが、実際はいろんなものがいくつもの積み重なった末の決断だった。
 
 
時は遡って92年、XJAPANメンバー全員ソロ活動スタート。それに伴いTOSHI個人事務所設立
初代社長に実長兄を任命
長兄の度重なる不祥事によってクレーム連発
解任
 
長兄の次の社長に武氏を任命、同時にXJAPAN本体の運営事務所代表にも任命
武氏が両事務所で不正経理を繰り返し解任。XJAPANの事務所ではTOSHIが保証人だった為TOSHIは自分のバンドでありながら株式を返上。
 
(この後はNYでバンカーとして働いていた次兄にお願いし社長に就いてもらう。次兄は不祥事等起こすことは無かったが、後々洗脳されてしまったTOSHI本人が組織のトップと、その愛人だった元妻に唆されてクビにしてしまう…)
 
実母が実家にファンを上げ、お金を取って古い写真やビデオを見せていたことが発覚→YOSHIKIやその他スタッフにクレーム多数。
 
これらの事案によってTOSHIはドームクラスのトップボーカリストでありながら謝罪行脚の日々でスポンサーが離れていったりしていた。そこに
 
④XJAPAN世界デビューに向けた国際盤レコーディングによる疲弊
 
これは95年からで完全英語盤をリリース予定であったが、その為の英語発音がなかなか上手くいかなったり、YOSHIKIの一般人には分からないであろうものすごい高いハードルの要求に応えられない自分にも憤りや違和感、亀裂を感じていた。
 
映像でもあるけどほんっとうに鬼畜なレコーディングだったのか張り詰めるどころじゃないレベルのレコーディングだった。ボーカルレコーディングなので本来そこにいる必要はないのに、スタジオに来てその空気を和らげようとするHIDEも映っていたりする。
 
そんなTOSHIを癒してくれたのが後の妻であり、TOSHIを地獄の道へ引きずり込むことになる守谷香だった。93年にオペラでヒロイン役として共演し、その後交際スタート。LAと日本で手紙のやり取りをしたりするのがTOSHIの唯一の癒しだった。
その妻が本当のあなたを見たい。ありのままでいい。とかいろんな言葉をかけて引き込み、TOSHIも依存していく。周囲は守谷との結婚に猛反対していたが97年2月に入籍。
 
その守谷はXを辞めろと常々TOSHIに言っていた。
 
そんな感じで脱退を告げYOSHIKIは許可したが、他のメンバーに聞かないと決められないと言い、ソロのレコーディングでLAにいたHIDEとHEATHを呼ぶ
 
HIDEはTOSHIの脱退を断固反対する。
 
HEATHはTOSHIの自著によれば黙って一点を見つめていたが、YOSHIKIインタビューによれば冷静じゃなかったとのこと。
 
HIDE「またトシくんか!ボーカルがいなくなったら俺たちどうするんだ?Xはどうなるんだ?どんなことがあっても自分たちで解決してやってきたじゃないか!!Xはトシくんだけの人生じゃないみんなの人生なんだ!!」
と怒りをあらわにしていた。そしてこの時、
 
TOSHI「俺も長い間悩み抜いて決めたんだ、もうXに全身全霊で打ち込めない自分がいる、これからは音楽で人を救いたいんだ」
HIDE「救えばいいじゃん音楽で」
TOSHI「Xにいたらそれは出来ない」
HIDE「ロックバンドでは人は救えないのか?」
TOSHI「そうだよ」
 
​といった会話がなされHIDEは呆れてしまった。
 
最近また少しフィーチャーされるようになったけどHIDEは当時、まだ世界に数例しかない難病の女の子を励まし支援含めて骨髄ドナー登録をし、ツアー会場には特設ブースを設けていた。
この骨髄ドナー登録の件は本来は広めるつもりは無かったが、事務所側が勝手に記者会見を組んでしまい、HIDEは激怒した。ところが皮肉にも骨髄バンク知名度向上に一役も二役も買っていた。
故にHIDEの「救えばいいじゃん音楽で」発言は説得力がありすぎた。
 
 
 
TOSHIはスタジオを出た。脱退である。
そしてTOSHIは妻を入り口にホームオブハート(以下HOH)に心酔し、依存していく…
俗に言う洗脳である…
 
 
 
​2:解散の決定
 ​
その後ミーティングが繰り返されたのは勿論、YOSHIKI1人で契約消化のためのライブアルバムのエディットと1996.12.31のDAHLIA TOUR FINALのビデオエディット。このアルバムの方が後の97.10.15にリリースされることになるlive live liveという93年から96年まで毎年やってた12.30、12.31のライブ音源集。
 
基本的にリリースされるものはYOSHIKIの手によって編集されていて、ボーカルパートの編集も綿密にやってた。
 
 
※余談ではあるがXJAPANはこの後98.1.21にLIVE IN HOKKAIDOという95.12.4@真駒内アイスアリーナでのDAHLIAツアーのライブアルバムを出すのだが、これがなんと客席?ステージ裏?からボイスレコーダーで録音されたモノラル音源であった。これはXJAPANのリリース作品で唯一YOSHIKIが関わっていないものであった。
密録レベルで超低音質な上に音割れの酷いもので、ディスク1枚に収めるためか何曲もカットされ、カセットの巻き戻しの音が入っていて強引に途中で切ったりしてるトラックもある。
 
(このアルバムを買う目的はほぼ無いかもしれないがWEEK ENDのDAHLIAツアー前半のみのアレンジとYOSHIKIのドラム破壊後、セッティング中に即興で弾いたunfinishedは貴重かも)
 
何が言いたいかというと契約枚数消化の為なのか、そんな物までリリースしないといけない状況であった。突如決まった解散を象徴するようなものだったということ。
 
ところがその編集中にTOSHIは脱退。YOSHIKIはもうそこにはいないTOSHIの声を毎日聞いて編集することに限界が来てしまいメンタルダウン→精神科通いでカウンセリングを受けることになる。
 
対人恐怖症みたいな状況になり、朝起きれず、スタジオまでの車も運転出来なくなり送迎してもらっていたようなこともあった。
 
まだ解散は決意していなかったが、もうこの辺で一区切りつけないとダメになるということで残された4人でミーティングをして解散ということに。
 
YOSHIKIはPATA.HEATH.HIDEを呼び解散したい旨を告げると「どういうこと??」という反応が返ってきてまた話し合いになり、出た結論は
 
1度解散して、2000年に新しいボーカルを入れて再結成しよう
 
ということだった。ここに落ち着いたということ。つまりTOSHI以外の4人は解散というよりは活動休止に近いものだったのかなと。
後々BS、地上波で放送されたXJAPANドキュメンタリーのインタビューでHIDEも
 
「辞めたい奴がいるつって、辞めるつってそれを辞めた人間なしで今までやってたことを切り替えてなんていうそんな器用なことは出来ないっていうことで解散っていうのを出したっていう」
 
「みんなほとぼり冷めた頃でも何でもいいんだけど、また5人でやればいいバンドってのは音出してなんぼだから」
 
と述べてるあたりそんな感じっぽい。
そんな経緯を経て97年6月頃、内々で解散が決定する。
 
 
​3:解散記者会見
 
1997.9.22の朝刊
XJAPAN 解散!緊急記者会見本日午後1時!
 
f:id:bluebloodorange:20191130113623j:image
という広告が出される。
場所は都ホテル。TOSHIを除いた4人で行われた。YOSHIKIの口から理由はTOSHIの脱退と発表。 
 
 
f:id:bluebloodorange:20191130113628j:image
 
↑4人だけでの会見だった。左からHEATH.HIDE.YOSHIKI.PATA
 
 
TOSHIはいないのか?という記者の質問に対してYOSHIKIは「もう脱退してバンドの人間ではないので…」と答えたが、この件に関しては後ほど。
 
4人からのメッセージもあり、特にHIDEの
 
「待たせるだけ待たせてファンの人達には申し訳ないと思っております、これまでワガママ三昧やって参りましたが最後のワガママ聞いてください、ごめんなさい、そしてありがとうございました。」
 
って言葉はなかなかメンタルに来た人多かったんじゃないかと思う。多かったどころか日本中が大騒ぎになったくらいだった。
 
そして解散シングルを11月リリース、解散コンサートを計画中だということも発表される。この時はまだ普通に計画が進んでいた…ところが…
 
​と書いていたらだいぶ長くなってしまったのでPart.2へ!