YOKOHAMAN'S A GO GO

[NEVER SOLD OUT]なブログ

XJAPAN THE LAST LIVE 1997〜最後の夜〜 1997.12.31@東京ドーム Part.2

 
 
 
ここからはPart.2
 
Part.1はこちらをどうぞ
 
 
TOSHIが脱退し、解散が決定
記者会見が開かれ、TOSHIはいない。
 
 
と来て次へ。
 
 
 
4:翌日のワイドショー、そしてFRIDAY記事
 
​​1997.9.23 当然ニュース番組やワイドショーはXJAPAN 解散ネタ一色で、メディアは記者会見に参加しなかったTOSHIの元へ押しかけた。
 
そこでTOSHIは取材陣に対して
 
​​「解散記者会見は聞かされていなかった、呼ばれていなかった。」
 
と答えた。これに対してYOSHIKIが大激怒。
YOSHIKIサイド、残った4人サイドにしたら、TOSHIのマネージャーとは何度も話し合いを重ねていた上での会見で、何かあればメッセージをという事も伝えていたとのこと。
 
おそらくTOSHIの脱退と公表したら、TOSHIが悪者扱いになってしまうのは仕方ないことで直接的な攻撃を避けるために敢えてTOSHIには伝えなかったんじゃないかと(真相は分からないけど)
 
YOSHIKIは激怒し、ワイドショーにて応戦を考えるがお互い傷つきそうということでやめる。しかし怒りは収まらずLAの自宅へ帰ってしまう。これによって計画されていたラストライブ、ラストシングルは一旦白紙に。
 
 
そして9.26、FRIDAY10.10号が発売、その中に(TOSHI曰く)TOSHI事務所が出したTOSHI擁護記事があった。内容はと言うと
 
・解散記者会見は知らされなかった。正直ショック、自分の言葉で伝えられなくて悔しい。
 
・XJAPAN優先でスケジュールを空けていたがいつまで経っても埋まらないからソロで動けない、もう時間的にも経済的にも限界。
 
YOSHIKIは音楽性の違いと言ったが、詰めれば生き方の違いみたいなところ。
 
・解散シングルもコンサートも出る、でも何も要請が来ていない。
 
という記事だった。TOSHI事務所の社長は前述した次兄で、TOSHIへの一方的なバッシングを回避する為の記事だったと思われる。
(ちなみにここでは詳しく触れないが後にTOSHIがどっぷり洗脳されてしまっていた時期、TOSHIと次兄でお互い週刊誌を使って泥仕合を繰り広げていたりもした)
だが…
 
5:HIDE大激怒、そして最後の会話
 
​洗脳にどっぷり嵌ってしまっていたTOSHIは明らかにおかしな高額セミナーを夫婦で受けたりしていた。(あまりにえげつないのもあり、この場で内容に詳しく触れるつもりはないが、妻は教祖の愛人でTOSHIを引き込んでいた。詳しく知りたかったらTOSHIの自著 洗脳をどうぞ)
 
記者会見から6日後、FRIDAY記事から2日後の9/28、夜9時頃HOHの地下室でセミナーを受けていたTOSHIの元にHIDEから激怒の電話が入る。
 
おいなんだよあの記事は?
が第一声だった。まぁ記事と前述したワイドショーでの発言合わせてって感じなのかな?
TOSHIはHIDEに激怒されたことがなくかなり驚いたという。TOSHIはその時点では記事の内容を知らず、ひたすらHIDEに平謝りしていた。
そして電話口でHIDEに今セミナーを受けていること、セミナーを受けて自分が感じたことを全て号泣しながら話した。Xメンバーにセミナーのことを話したのは初めてだった。
 
明らかに洗脳状態で、情緒不安定?なのもあったのかHIDEはゆっくり話を聞き始める。
 
そしてHIDEはおそらくこいつヤバイと察していたのか、最初は怒っていたのにうんうんとゆっくり優しく親身になってTOSHIの話を聞き、
 
よし分かった!トシくん今度一緒に飲みに行こう!その時話聞かせてよ!
といい電話を切った。
 
 
これが97年の9月だが2人の最後の''まともな''会話になってしまった、、、、、、
 
 
 
 
​6:The Last SongとHIDEの説得、衝撃の後日談
 
YOSHIKIは記者会見の時に「11月にラストシングルをリリースする」と発表。
 
ところがTOSHIの発言に激怒してLAに帰ったことで白紙に。
 
結果リリースは延期され、シングルとしてリリースされたのは3月になった。(厳密に言えば12月にリリースされたベストに収録された)
 
これに関してはFC会報読んだら分かるんだけど、恐らく曲自体は7月ごろ出来てた。で、残すはボーカル録りのみだった。
 
が、会見後(9.23)一度白紙になったこと+前述したフライデー記事によれば話が来てないということでボーカル録りは先延ばしになったと考えるのが妥当かな。
 
そんなこんなでボーカル録りも始まるが、なんとYOSHIKIはボーカル録り、編集に立ち合うことはなかった。Xの全楽曲の中で初めての出来事だった。それほどTOSHIのワイドショー発言にショックを受け、怒っていた。
 
常に一般人には聞き分け出来ないレベルの細かい部分を何度も歌い直させたり、編集していた人間がその場に立ち合わないことの重大さはなかなかだった。
 
とはいうもののThe Last SongはXJAPAN屈指の名バラードになった。リアルタイムで体験した人はどうしてもこの背景がフラッシュバックするかもしれないけど…
 
11:34の壮大なバラードで切ないピアノイントロから泣くようなギターソロにストリングス。いつものXってこういう感じなのかも。
 
 
 
でも何より注目すべきなのは歌詞。YOSHIKIの英語語りパートが長く、TOSHIのパートは日本語なんだけどYOSHIKI曰く、
 
「僕とトシの最後の曲ということで対話形式にしようと思ったんですよ、だから僕は語りでトシは歌と」
でもレコーディングは対話せず録った。。。
 
一応ここでTOSHIパートの歌詞を抜粋↓
 
 
終わらない雨 抱きしめた 夜が朝を向かえる
心はまだ濡れたまま

傷つくだけ 傷ついて 解ったはずの答えを
どうしてまだ 問いかけてる

気がつけば又 独り夜の空を見つめてる
少しづつ消えて行く Our Memories
傷つくだけ 傷ついて 解ったはずの答えを
どうしてまだ 問いかけてる

終わらない雨 抱きしめた 夜が朝を向かえる
心はまだ濡れたまま
傷つくだけ 傷ついて 解ったはずの答えを
どうしてまだ 問いかけてる
 
いやこれエグくない?宛て書きでこれってなかなかキツいと思われる…改めて読み返すと生々しさがすごい…
 
シングルも完成したところで1997年も年末に近づくわけだけど、YOSHIKIは相変わらず怒っていて、ラストのライブも無理だと思っていた。
 
スタッフ、マネージメントサイドはいろんな動きが取れるようにあらゆるパターンでスケジュール、会場等確保し、バタバタ動いていた。
ライブも複数日ドームを抑えていた。
 
そこでHIDEがひたすらYOSHIKIを説得にあたる。
​H「YOSHIKI絶対やるべきだよ」
​Y「いややりたくない、やれない、今回ばかりは俺も絶対許せない」
 
だいたいのこの繰り返しで強めの言い合いにもなった。YOSHIKI曰く
 
「要するに彼がね,"自分はこういう道に行きたい"と言うから,それを僕らはちゃんと受け入れたわけじゃないですか.そこでは別に何のわだかまりもなく,キッパリと綺麗に全員が納得したわけだし,それを何かわけの解からないこと言われて….だからまぁ,ファンのみんなには申し訳ないと思ったけど,自分にはもうドームもシングルもできない」と
 
という思いから怒っていてこれはもちろんHIDEも分かっていた。だから激怒の電話を入れた。
 
でもとにかくファン第一で大事にしてきたHIDEは何が何でもやるべきというスタンスを崩さなかった。そしてYOSHIKIは驚くべき発言もしていた。それは
「もしファンに対して,ちゃんと形をつけれるんであれば,ヴォーカル抜きでやろう.ファンのみんなに歌ってもらおう」 
ということだった。普通に考えたら有り得ないし、そんな考えに至らない。でもそこまで怒っていたのかと思うともう色々とカオス過ぎて…
 
何度も言うようだがボーカルのいない代わりにお客さんに歌ってもらうコンサートなんてあり得ない。
 
 
結果コンサートはYOSHIKIがHIDEの散々の説得に折れる型で12.31@東京ドームに決まる。もちろんTOSHIも出る。が、TOSHIはこの2人のやりとりを知らないのかマネージメントサイドの強い要望で参加したと書いていた。
勿論2人の意見そして残りの2人の意見を纏めてマネージメント側が伝えたんだろうけど、TOSHIサイドとしても脱退してしまった故、本当は出なくなかったようだ。
 
​7:リハーサル、HIDEの説得②
 
​ラストライブ1週間ほど前、リハスタジオで衣装合わせがあった。
 
HIDEはここで「トシくんちょっといいかな?」とTOSHIをスタジオの小部屋に呼んだ。
 
2人のみで小部屋に篭り、小1時間TOSHIの説得にあたっていた。
 
そして部屋から出てきたHIDEは
「あんなやつもう勝手にすればいい」
と匙を投げていた。と同時にその言葉からは尋常じゃない寂しさも伺わせていた。
 おそらくトシはHOH側から余計なことは喋るなと口封じされていたんだと思われる。すでに洗脳支配下でまともな判断能力も無かっただろうし、聞き分けもきかなかったんだろうなと。
 
そしてリハーサルも佳境。
 
​XJAPANは今もなんだけど、レコーディング拠点がLAでYOSHIKIの自宅もLA。
 
YOSHIKIも超多忙なので先に日本にいる4人が過去のライブ音源に合わせて先にリハーサルを始めることが多々あった。
 
HIDEが大まかなセトリを組んで、後からYOSHIKIが合流して音合わせして詰めていく流れが定番だったが、今回は違った。
 
YOSHIKIは未だに記者会見後のTOSHIの発言を引きずっていて全体リハを拒否、1:4に分かれてテープを聞きながらリハしていた。
 
そして12.29、スタジオリハの最終日に2曲だけ合わせた。ここでもTOSHIとは一切口聞かなかった。
 
12.30 ドーム入りでゲネプロ
これまたHIDEの明日のコンサート良いものにしようよという説得でYOSHIKIはTOSHIの楽屋へ行き、
「いろいろあるけど明日は頑張ろう」
とだけ言った。
 
 
​8:1997年12月31日 午前
 
 
​TOSHIは朝9時からHOHの地下室で暴行を受けて泣き叫んでいた。3時間ほど経ち放心状態のまま東京ドームへ向かった。コンディション云々以前の歌なんてとてもとてもキツい状態だった。
 
ドキュメンタリー映画、We are Xの中に少しだけ当日リハの映像があるけど誰と言葉を交わすわけでもなくストレッチしているシーンだった。TOSHIは誰とも目を合わせられない状況だった。
 
 
ここでは詳細は書かないが4.22に脱退してからTOSHIはすでにとんでもない金額をHOHに貢ぎ、どっぷり浸かってしまっていた。
ただ貢いでいただけではなく暴力、統括、金銭搾取支配下にあった。
当然まともなライブを出来る状況ではなかったが、この日は東京ドームでの解散コンサート後、紅白歌合戦Forever Loveを歌いそれがラストステージになる予定が組まれていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
とんでもなく長い前フリになりましたがようやくライブへ。
 
 
 
​と言いたいところですがキリ良いのでこの辺で一度区切りを笑 Part.3へ。